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庸碌的北畠國司

織田信雄  おだ  のぶかつ

永祿元年(一五五八)生
寬永七年(一六三O)四月三十日沒

◆信長之二男,伊勢松島、尾張清洲、大和宇陀松山城主,初期領國為南伊勢五郡、伊賀三郡

幼名茶筅丸、三介。永祿元年(一五五八),作為信長的二男而在尾張清洲城出生。元服後曾改名具豐、信意、信勝,最後改為信雄。永祿十二年十月成為了伊勢國司北畠氏之養子。天正三年(一五七五)六月,繼承了國司家對南伊勢進行支配。此後,多次隨父親信長的统一軍團出征。由去年開始一直在進攻伊勢長島一向一揆,八月則改往越前對一向一揆進行討滅作戰。之後又向紀伊雜賀的播磨出陣,天正七年九月,對石山本願寺進行包圍戰,並自行獨斷進攻伊賀國而大敗,受到信長諫言狀的叱責。天正九年九月平定伊賀成功,被賜予伊賀國三郡。天正二年時叙位從五位下侍從、翌年六月晉位正五位下。同年十一月,信長昇任權大納言兼右近衛大將,信雄亦昇為右近衛權中將。天正十年六月二日本能寺之變後,接收兄長信忠的遺領尾張並以清洲為居城。小牧長久手之戰後與豐臣秀吉妥協,昇任正二位內大臣。但是在小田原合戰後拒絕移封到德川家康的舊領,惹怒了秀吉而被流放至下野。出家後法號常真,以茶道為樂。元和元年(一六一五)七月,大坂夏之陣後,家康將大和、上野兩國的五萬石領地賜予信雄,晚年在京都北野居住直至死亡,享年七十三歲。根據『御湯殿上日記』,信雄該讀作「のぶかつ」,但被誤傳為「のぶお」。法名德源院殿實巖貞公,墓所位於京都大德寺總見院及群馬県小幡崇福寺。

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